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一徹な大人たちのロンド:パーカー「スペンサー・シリーズ」

Boston Skyline 4 by egoforall

昨年夏ごろから読み始めた Robert B Parker の「スペンサー・シリーズ」既刊分を、とうとう読み終えることになった。

シリーズを読み進めていた間、とくに気に入った作品の感想をその都度書いてみようかとも時に考えた。だが読んでいくうちに、次第にこの一連の小説は(もちろん各作品は独立しているものの)全体として大きな物語を形成しているという側面もあることがわかってきた。このため、個々の作品の特徴や出来具合を云々するよりも、いかに楽しんでシリーズを読めたかをまとめたほうがいいと思うようになった。

以下は、読みながら自分がメモしておいた印象を、シリーズ作品からの(かなりの分量の)引用を交えて綴ったものです。いわゆる“ネタばれ”的記述により未読の方の興趣を殺がないようにできるだけ留意していますが、どうしても作品の筋の一部や個別の登場人物などにふれざるをえないため、「続きを読む」に追い込みます。(それでも、直接この頁へ飛んでこられた方には全体が見えてしまう。申し訳ありません)

シリーズ邦訳書誌については、これまで拙稿でたびたびお世話になっている Takashi Amemiya さんの大変な御労作「翻訳作品集成」にて、作者名索引「P」から「ロバート・B・パーカー」の項目をぜひご参照ください。

なお、以下で示す引用出典箇所でいう「文庫」はハヤカワ文庫所収、「単行本」は早川書房刊行のものです。訳者はすべて菊池光さん。ごく限られた箇所、どうしても原文での表現を知りたいと思ってウェブ上で見つけることができたところを除いて、私はこのシリーズを英語原版では読んでいないことを、あらかじめお断りしておきます。

〔2005年2月16日追記〕 原文で読んでいないことと関連して、以下の「“唯名論者”スペンサー」と題した一節にとんでもない誤りがあることに、つい先ほど気づきました。当該箇所を含め、同節の大幅な書き直しが本来ならば必要なのですが、とりあえず追記で何が間違っているかだけは明記して、しばらくそのままとさせていただきます。誠に申し訳ありません。〔05年2月16日追記終〕

スペンサーという探偵

以前にもふれたが、謎解き・トリック解明・犯人当てなどを楽しむという意味でのミステリー読者として、私は完全に失格だ。それ以外の点でも、概して自分は凡庸で鈍感な読み手だとつねづね思っている。そういう私にも、このシリーズは十二分におもしろかった(このことは逆説的には、謎解きなどの要素がシリーズ全篇を通じて薄いということを意味しているのかもしれない――しかし、私のごとき怠惰な読者をも惹きつけるに足る、物語としての魅力を具えていることの傍証には、少なくともなっているだろう)。

スペンサーは私立探偵なので、職業柄、当然何らかの事件の解決なり真相究明なりを依頼される。いま述べたとおり、私には端から彼の探偵作法について云々する資格がないが、スペンサーのやり方は、一言でいえば「当たってくだけろ」式だ:

つまり、事件の関係者と目される人たちに手当たり次第いろんなことを尋ねてまわる。この過程で、スペンサーは夥しい数の軽口をたたく。この、緊迫したやりとりのなかでも平気で(実際にはしばしば、重苦しいあるいは危険な状況下でも平気にみせかけるために)発せられるスペンサー流軽口の、なんとも微妙な“(は)ずれ具合”については、実際に作品をお読みいただくしかない。シリーズを読み始めた当初、私はこれがけっこう神経に障る感じがして好きではなかった。だが次第にスペンサーのこうした科白なしでは読んでいられない気がするくらい、お気に入りになってしまった。

時と場合とにほとんど構わず軽口を連発するせいで、スペンサーは非常にしばしば、調査を進める間に彼と対面/対決する悪人たちから「自分のことをおもしろい奴だと思っているらしいが、お前はおもしろくなどない」といった類の嘲りを受ける。ボストン警察の殺人課警部(警部補から、かなり年月が経過してシリーズの比較的最近作でようやく昇進する)で、スペンサーの長年の“知人”、クワークもこう言っている:

同じような意味合いで「だいたいいつも、お前のいる側は間違っていない」(趣意)などとも言われるスペンサーは、かつてはクワークと同じく警察官だった。彼はつまり正義を重んじる、きわめて“真っ当な”人物として設定されている。そして、スペンサーの正義は、事件によっては法律が定める(したがって当然、警察権の執行官吏としての警官が(少なくとも建前上は)絶対に守らなければならない)ところを超える。それは官吏ではなく私立探偵であることにより、いわば“定義上”からスペンサーに許容されている自由ではあるが、しかしそれだけではない。彼の人間性の本質に根ざすものとして、作家により意図的に設定された自由だ。

文庫版・単行本を問わず巻末に付された解説で、このシリーズでは(あるいは、概してハード・ボイルドというジャンルでは)探偵はヨーロッパ中世騎士物語の騎士に相当し、正義を尊び一定の行動規範に従う点がくり返し指摘されている。作品中では、スペンサーはこんなふうにも形容される:

この一節で、兇暴だと言われて「おれは犬が好きだ」ととぼけて返すところに、スペンサー流“気の利いた科白”の一端が窺える。自分が、別れた後で振り返ってみて「恥じる可能性のある男」の一人かもしれないと示唆されて、「エゴを持ち上げるため」の世辞ではないか(むろん世辞ではありえない)と逆手にとっているのも、「面白くもおかしくもない男」スペンサーの面目躍如たるところだ。

それはそれとして、複数の評者(おそらく母国あるいは英語圏でのシリーズ評にもこうした指摘はあるに違いない)からの「スペンサー=騎士」との指摘を、作家がそのまま作品中に持ち込むことはしたくない(だろう)のを考えれば、大柄でシニカルでも「ボーイ・スカウト」とは、作中人物に言わせるにはけっこうギリギリのところかもしれない。スカウティング運動は、言うまでもなく軍人で後に叙勲された英国人 Robert Baden-Powell 卿(リンク先は同氏に関わる多数の一次資料が読めるサイト、英文)が、20世紀初頭に退役後始めた青少年育成プログラムだ。これを取り巻く伝承(lore)には、無私と奉仕の精神、勇気、豪胆、誠実("truth"-full-ness)……等々の“騎士の徳目”(→Wikipedia 英語版「Knightly Virtues」の項。ただしこれは本稿執筆時点では単なるアルファベット順列挙)の発露が、ほとんど時代錯誤を思わせるほどに色濃い。

あるいは「大きすぎて打ち破ることができない」エゴを持つと言われる男。極限は大小の両端でしばしば接触して円環を成し、遍在するほどまで広大なものはどこにでも“在る”がゆえにほとんど無に等しい。だから「あなたにはエゴなんかない」。ここまで或る意味で大仰に言われると、いささか鼻白む向きもあるだろう。それでも、作家はこれをレイチェル・ウォレスに言わせている。彼女は、女性同性愛者でフェミニズム活動家だ。このことは言うまでもなく、彼女が英語でよく聞くフレーズ "Male chauvinist [pig]"(男性優越を盲信する性差別主義の愚か者)の宿敵であることを意味していて、シリーズ初登場の『レイチェル・ウォレスを捜せ』では文字通りそういう立場から、スペンサーが体現している筋肉に物を言わせる“男性性”の対抗者として、彼と衝突する。超一流の知識人として描かれる印象的な登場人物だ。ドン・キホーテぶりを揶揄するものとしてもまったくおかしくないこの科白も、レイチェル・ウォレスが吐けば所を得て生きてくるというものだ(……と、シリーズに惚れ込んだ私には思える)。

“家族”の形成

スペンサーは、第1作『ゴッドウルフの行方』ではほぼ単独行だ。ほとんど節操がないと言ってもかまわないほどの女性関係も含めて、シリーズ初期の作品では他者との関係は刹那的・希薄で、せいぜい自分の古巣だった警察関係者との関わり方に、立場の違いを越えたお互いのプロフェッショナリズムへの信頼が見られた程度だった。この“プロへの敬意”は、その後もシリーズ全体を貫く柱のひとつとして生き残る。

ところがスペンサーは、探偵の仕事を通じて自分の周囲に現れる登場人物たちの何人かと、いつしか密接に関わり始める。そしてそのうちのさらに限られた数の人間たちと、シリーズ各篇の内にとどまらない、継続的な繋がりを維持することになる。先の引用に登場したレイチェル・ウォレスも、(姿を見せる回数は少ないものの)その一人だ。

このあたりがシリーズを最初から順を追って読んでいく醍醐味のひとつだと思う。おそらく作家には、当初さほどきちんとした計画があったわけではないのだろう。そもそも第1作を読むかぎりでは、スペンサー物を後に30作以上30年以上も続く息の長いシリーズにしようとする意図が Parker にあったかどうか疑わしい。それが、作家が古希を越えて書いた第30作ではこうなる(Parker は1932年生、『真相』は2003年上梓):

ポールは、シリーズ屈指の名作に挙げる読者も多いらしい第7作『初秋』で登場した。スペンサーの依頼人だった彼の母親と、その夫で彼を軟禁していた父親の双方からまったくと言っていいほど愛情を注がれず、孤独で途方に暮れた少年だった。スペンサーは調査を進めるが、作品の後半かなりの部分ではほとんど事件そっちのけで、ポールを自立できる人間、正当な自己愛を具えた大人(の“男”)にするために、積極的に彼にコミットする。いっぽう、「あんたとスーザンとぼく」と列挙されたスーザンは、第2作『誘拐』で早くもシリーズに姿を見せてスペンサーと恋仲になるが、彼女はじきに探偵にとって(そして探偵は彼女にとって)かけがえのない存在になっていく。

なお、「それに、パール?」とあるこれはスペンサーとスーザンが飼っている愛犬。登場以来、二人が事件をめぐって会話し、探偵の調査によって判明した事実と推理とを整理する際に、あるいは散歩やジョギングの折にしばしば姿を見せる。

何でもない“小道具”のようだが、シリーズ最近作では、中年を過ぎて老年の域にさしかかるこの二人の一足先の未来を暗示し考える契機となるような描写に用いられる。Parker の作家としての力を窺うことができる一端だ。そして(この部分は念のため文字色を変える)ついには彼らに先立って逝き、二代目のパールが登場することになる。

そのポールは、スペンサーとスーザンの関係が危機を迎え始める時期、第10作『拡がる環』では、ポールとスーザンとスペンサーから成る“家族”、そしてスペンサーという人間の生き方の核心を衝く洞察を、探偵本人に向かって投げかける:

いま振り返ると、自分がこのスペンサー物に心底から魅力を感じるようになったのは、シリーズ10作目のこの箇所を読んで以降だったと思う。ここでのスペンサーは、まるで皮膚まで剥がれて赤裸にされたようにぼろぼろで、自身が絶対に他者には見せようとしなかった無防備さをポールに向かってさらけ出している。少なくとも私にとっては、このパッセイジは「ああ、このシリーズはこういう物語なんだな」と得心がいった鍵のひとつになっている。(そういう意味では最大の“ネタばれ”かもしれず、この一節をこれだけの分量まとめて直接引用してもいいものか、かなり迷った)

シリーズ全体の流れとしては、この作品の前後からスペンサーとスーザンの関係に大きな変化が訪れ、問題作とされる第12作『キャッツキルの鷲』でひとつのピークを成し、その余波はしばらく続く。この間の経緯はそれこそシリーズ通読の楽しみのひとつで、詳細はすべて省く。

上の引用箇所でポールが指摘しているように、“完全無欠”で他者との関わりをさほど重視していなかった(少なくとも本人としてはそのつもりだった)スペンサーが、いつしか擬似的な(そしてそれは、スペンサーが言うとおり「家族をどう定義するか」によって真正の)家族を心の裡へ迎え入れる/容れるようになる。そしておなじみの登場人物たちが各自、絶対に揺らぐことのない核のようなものを保ちながら、シリーズを通じてお互いにさまざまに関わり合う。本稿標題の「一徹な大人たちのロンド」とは、そのさまを言わんとして初っ端から下手を打っている。それはご海容を願っておくとして、スペンサーを含めた彼ら、スーザンやポール、真にプロフェッショナルなボストン警察や州警の(一部の)捜査官たち、日本語でいう「仁義」や「侠気」を感じさせる妙に魅力的な裏稼業の悪人たち、そして何を措いてもホークといった面々が、いかに“一徹”で“大人”であるか、そしてどのように“輪舞”するのか――その実際は、やはりシリーズを読んで味わっていただくしかない。

“唯名論者”スペンサー

私立探偵(ハード・ボイルド?)小説に関わるこんな駄文で“唯名論者(nominalist)”などと言うと、衒学的に過ぎるかもしれない……が、できれば今しばらくおつきあい願いたい。

知られているとおり、実念論(Realism)に対する唯名論(Nominalism)は、(「騎士」に続いてまたも)ヨーロッパ中世、キリスト教スコラ神学における最大の論点のひとつだった、普遍(universal)論争で思想史に出るもの。細部をばっさり切り捨てると、実念論は普遍、つまり個物/個体(たとえば人間一人ずつ)の上位概念としての“人類”といったものが実在しているとする立場で、これに対して唯名論は、普遍など言葉だけのものに過ぎない(ので実在しない)とする。これをお読みいただきたい:

言ってみれば、このパッセイジでリッグズが言う「黒ん坊」=黒人が、普遍論争における普遍の実例だ。リッグズはそれに「野郎」を付すことで個物(=ホークというひとりの個人)を指そうとするが、あくまで個物の上位概念である普遍を経由した呼称だ。これに対してスペンサーは、断固としてホークをホークという名前、固有名詞で呼ぶこと、そして、名前で直に呼ぶことによってホークという個人を尊重する意思を示すことを要求する。

〔2005年2月16日追記〕 かなり気をつけたつもりでしたが、やはり大きな間違いを犯していました。直前の段落で打ち消し線を付した2つの文は、実はまったくの誤りです。この話は、厳密には上で引用している日本語訳でしか成立しません。

引用パッセイジ1行目の原文は、Bullets and Beer の同書のページ、「Favorite Lines」によれば、「'In front of the goddamned buck nigger?' Riggs said.」です。無理やり、「nigger」は黒人全体をも指すことが可能で、それに冠詞などを付すことにより……などと言えないこともないかもしれません。しかしそれはやはり論外と言うべきでしょう。

誠に情けないことながら、適切な代案というか別の書き方を思いつかないので、とりあえず打ち消し線を付け、当該部分がまったくのデタラメであることをこの追記で明記して、恥を晒すことにします。本当に申し訳ありません。〔05年2月16日追記終〕

これに類するシーンは、シリーズ各篇に夥しい。スペンサーはしばしば人を正しく名前で呼ぶこと(また、事件発生からの経過年数や事件関係者の年齢などの具体的な数字)に過剰と言えるほどにこだわる。それは、結局のところ名前だけが、彼にとっては唯一にして十分な、あるいは実際上それによることでしか“実(じつ)”を指示できない、個々の人間そのものの特定方法だからだろう。スペンサーはお題目(≒果して実在しているのかはもとより、役に立っているのかすらしばしば疑わしい普遍)には踊らされない。

上掲の一幕での「そういうこと〔=人種に基づく偏見〕に神経質なのか」というリッグズの科白もまた、スペンサーにしてみればひどく的外れだったに違いない。たったいま、「役に立っているのかすらしばしば疑わしい」普遍≒お題目と書いた。たとえばこんなふうに、実はそれは単に無益であるだけにとどまらず、有害だ:

人種の違いで揺さぶられても、強面に訴えられても探偵は動じない。ホークはほとんど感情や思考を表に出さない人物であることがシリーズを通じて強調されるが、このシーンでは、既成概念が現実にもたらすマイナス面に(正当に)反撥を覚えつつも、それにとらわれ過ぎて逆に搦め取られてしまったマッキャンのような人物に、スペンサーがどう対応するかを、楽しみながら傍観している。

これに類するシーンもまた、シリーズ中で無数に描かれる。とくに人種への言及は、シリーズ作品のほとんどが米国を舞台にしているため枚挙に暇がないほど出る。どの描写も、一見正しく理解があるようにみえる態度や思考(たとえば、白人・黒人・ヒスパニック・“インディアン”・中国系がそれぞれ唱える「人種差別反対」)が、実は非常にしばしばそうした思考や態度が間違ったものとして否定しようとする対象と同じ水準まで堕ちてしまっているか――既成概念の落とし穴のようなものを、スペンサー(やホーク)の言動が逆照射するようなかたちで行なわれる。肌の色や出身/所属社会階層、肩書、財産、ホモかバイセクシュアルかヘテロか……およそ対人関係における尺度形成の要素になりそうな、しかも個人を或る基準で一緒くたにまとめてしまう“括り”のようなものは、ことスペンサーとホークにとっては意味をなさない。

そもそも、けっこうな数の作品で探偵に協力する助っ人のホーク自身が犯罪者だ(シリーズには、最初ホークは借金取立ての付け馬役として登場するが、その後は彼の“本業”たる犯罪行為に関する消息はほとんど作品に現れなくなる)。そして一つ前の引用にもあったとおり黒人でもある。しかしアイルランド系白人で元警察官として設定されているスペンサーは、そんなことはまったく意に介さない。この二人の男たちは、若かった頃ボクシングをしていて、試合で殴り合ってお互いの実力を認めて以来の関わりをもつ。

スペンサーとホークの関係、彼ら二人の間の堅固な絆は、こうして人が知らず知らずのうちに身に着ける、紐付き荷札のような無数の属性を非本質的なものとして切り捨て、あくまで相手の人間としての“実(じつ)”にのみ基づいて築かれている。“唯名論者”と私が大仰に書いてみたのも、つまりはそういう意味だ。

しかし、引き合いに出してもこの駄文をここまでお読みいただいた方の理解に資さないなら、それこそ衒学趣味に終わってしまう。そこで最後の悪あがきをひとつ。

いわゆる「オッカムの剃刀」(リンク先は Wikipedia 英語版「Occam's Razor」)、ここでもきわめて乱暴な要約を許していただければ“要らないものは捨てろ”の格言(?)をご記憶の方も多いだろう。私ごときが言うまでもなく、この「オッカム」すなわち William of Occam(この地名は Ockham などとも)は、欧州中世末期の最も著名な唯名論者だった。文脈がまったく重ならないのを承知のうえで、スペンサーをこの格言にみえるオッカムのウィリアムに擬せば(無論どちらもやめてくれと言うだろうが)、少なくとも気構えの点では、二人はさほど異なってはいないような気がする。

"Breaks just like a little girl..."

「スペンサー・シリーズ」の魅力は、料理や酒、野球やバスケットなどのプロ・スポーツ、時代風俗から、英語を母語とする読者にとってもどうやら相当にペダンティックに映るらしい文芸本歌取りまで、散りばめられたトリヴィアを含めて汲めども尽きない。本稿はそのほんの一端を、まだわずかに一度シリーズを通して読んだにすぎない今の自分に可能なかぎり言葉にし直してみただけで、しかもまた生硬な言葉ばかり連ねてしまった。そろそろ切り上げよう。

見出しに掲げた "Breaks just like a little girl" は、元は Bob Dylan が書いた "Just Like a Woman" という歌の歌詞にあった。たしか、精一杯大人のふりをしている女性が“小さな女の子のように”くずおれてしまうという意味の詞/詩で(実は恥ずかしながら私はこの曲を聴いたことがない)、Dylan の歌詞のこの部分を最初にどこかで目にした時に、意識に灼きつけられる思いがした。

Parker のこのシリーズでは、多くの登場人物は成熟した大人だ。それが時に何かに耐え切れず、ポキンと折れるように壊れ崩れる。作家が描くそうした情景、とくに泣く時の息遣いの描写は、言葉数は少ないもののしばしば絶妙で、それらに出遭えただけでもこのシリーズを読んだ価値はあったという気が、私にはしている。長くなるが、いくつか実例をお目にかけたい:

私はこの部分の原文を確認できていないが、人称代名詞を抜いてこのシーンの息詰まる雰囲気を日本語に移した訳者の手際には感服している。

別の作品から:

同じ作品:

さらに同じ作品。幾つものパッセイジを書き留めたこの第20作『ペイパー・ドール』の出来映えを、私は高く買っている(……が、この作品は文庫版解説にもあるように犯人当ての要素が色濃く、不用意に引用することができない。以下は一連のシーンの一番最後の箇所):

最後の非常に印象的、かつ象徴的な一文は、T S Eliot の "The Love Song of J. Alfred Prufrock"、最終連の末尾「[Till] human voices wake us, and we drown.」である由。

Mea culpa, 我が過ちにより

最後に、もう一点だけ。

シリーズで、スペンサーが手ひどく仕事に失敗したと自ら思いなし、それ以降幾度もそのことに立ち返り思い返しては戒めとしている事件がある。米国北東部ボストンからはるばる西海岸ハリウッドまで出かけていった第8作『残酷な土地』のものだ。

上にいくつか引いた、堪え切れずに泣き崩れる人の描き方ともども、こういう描写ができる作家を、私は好きだ:

ふたたび長い引用で失礼しました。

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シリーズ30作目までを読んで書き始めたが、シリーズ第31作『背信(Bad Business)』(2004) の邦訳単行本(早川書房)が昨年12月に出ていたことを迂闊にもつい先日知り、いま読んでいる。“騎士”云々は作中で言及したくないのでは、などとわかったようなつもりで書いていたら、今度の作品では平気で「騎士道的愛」などと出てくる。スペンサー流軽口も、これまで読んだ数章でみるかぎりではいつもどおり。

シリーズ第30作『真相』単行本(邦訳)巻末には、「スペンサー・シリーズ私のベスト・ワン」と題されたアンケートが収録されている。30作・Parker の作家生活30年を「記念して、作家、評論家など著名な方々にアンケートを行ない、本シリーズ中のベストと考える作品を一作挙げていただき、それについてコメントを頂戴しました。ここにそれをご紹介します」とある。そのなかで、原りょう(この人の名前は、私の地元の公共図書館検索システムでも“下駄”(〓)だったり“豆腐”(■)だったりする。もちろん作家ご本人のせいではないが、現在一般的な計算機の環境では表示できず残念だ)がこう書いている(単行本 p.316):

このシリーズは「探偵スペンサーの生活と意見」というスタイルとして他の追随を許さぬ徹底したものだと言えます。私は自作をそういうものにしないためにも第一作以来通読しています。で『真相』も読みます。

「ベスト」と問われて挙げているのは、これから読むと文中で言っている、アンケート回答時点でのシリーズ最新作。相変わらずこの人は辛口だ。たぶん敬意は表しつつも、全然誉めていない(「……しないために“も”」(笑))のだろう。短いながらもきわめて特徴的で、読んで思わず笑ってしまった。備忘を兼ねて引いておく。

  • スペンサー物を隅から隅まで味わうための伴侶として、Parker による別シリーズ、ジェッシイ・ストーン物の最初の一冊について不十分ながらふれた以前の拙稿でも挙げた、Bullets and Beer: The Spenser Homepage を是非。今回シリーズを読みながら、幾度も参照して裨益されるところ大だった。本稿執筆にあたっても、もちろん随所で参考にさせていただいた。再掲して深く感謝します。

    作家についてのウェブ上リソースについても、よろしければ上記拙稿末尾で示したものをご覧いただければ幸甚です。

  • スペンサー・シリーズには、実は日本語でも非常に参考になるウェブサイトがあります。現在、リンクをご許可いただけるかお願いしているところです。

    〔05年2月19日追記〕 リンクをご快諾いただきました。Clues Are My Game です。主宰は、シリーズ全篇を原書でお読みになって、上記 Bullets and Beer でも、鋭いご指摘により随所で貢献しておられる方。上の拙稿で私が贅言を費やした「スペンサー=ボーイ・スカウト」のこと、スペンサーが人の名前にこだわることなども、脱稿後に改めて拝見すると、既にはるかに簡潔かつ的確に言及しておられたのに気づき、恥じ入る思いです。既読・未読を問わず、スペンサー物に関心をお持ちの方はぜひ。〔05年2月19日追記終〕

  • 以前の拙稿執筆以降に検索エンジン経由でみつけたもの。私は酒を飲めない不調法者なので正直よくわからないが、シリーズに出るお酒(とボストン名物の蛤)に絡んだ話をひとつ。田邊@nikkeibp.jp さんのウェブログWebとウイスキーの日々第11回、「ボストンの私立探偵の相棒」

    同記事コメント欄に田邊さんが挙げておられるリンク先、gaby さんとおっしゃる方によるサイトには、シリーズ各作品の簡潔な紹介や書評などと共に、酒に言及しているシーンを集めた印象的なページ「Spenser's Bar」がある。

  • 本稿冒頭に掲げた画像は、探偵の本拠地、米国ボストンのランド・マークのひとつ、John Hancock Tower (リンク先は「世界の建築百科」と題された Glass Steel and Stone、同ビルのページ)が空を映しているさま。いつもの stock.xchng 所収、egoforall さん(リンク先は同氏ポートフォリオ)撮影の「Boston Skyline 4」を縮小して使わせていただいた。記して感謝します。

    何の落ちにもならず申し訳ありませんが、中国生まれの世界的建築家 I M Pei(貝聿銘。リンク先は Wikipedia 日本語版、同氏の項。同英語版からは彼の設計による建築物に関するリンク多数)設計によるこのビルは、賛否両論あるらしく、実はスペンサー・シリーズではほとんど出てこなかった(ように思う)。在ボストンでよく知られたもうひとつの高層ビル、Prudential Tower がしばしば言及されているのを考えると、Parker はこちらの建物は嫌いなのかもしれない。

最後にさらなる蛇足を。「スペンサー・シリーズ」は米国版「鬼平犯科帳」かもしれない。

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Robert B Parker インタヴュウ@Dumpster Bust
米国・カリフォルニア州在住の Eric Berlin さんという方のウェブログ Dumpster Bust に、今年(2005年)3月13日に Berlin さんが自ら取材した「スペンサー・シリーズ」の著者ロバート・B・パーカー(RBP, →関連拙稿1、2)のインタヴュウが掲載されている。「Dumpster Bust
from Night rain, in winter... | at 06:05 on 2005/03/20 |
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