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アドリブの闇と泥沼:John Coltrane

Through darkness towards light, running...

ここ数年、Coltrane をまともに聴いていない。

自分にとって Coltrane は、自らの意思でジャズを聴き始めたいちばん最初に出遭ったミュージシャンだった。多くのジャズ好きがやるように、私も彼のリーダー作はほぼすべて、周辺の参加アルバムも代表的なセッションはほとんど聴いた。好きでたまらなかった時期もある。だが、もう何年も駄目だ。

以下は、本来ならば参考にしている当該の文章をきちんと再度確認して書くべきところ、現時点でそれを果たせなかったため、記憶にあるもの限りを基にしている。「続きを読む」に追い込んで或る意味隠すことにより、曖昧な参照の仕方をしていることの責を免れるわけではない。それは十分承知しているが、いま書きたいという身勝手のために敢えてこのようにした。あらかじめお詫びする次第です。

なお、本稿における (  ) 内の年時表記は、アルバムのリリース年ではなく、セッションが行なわれた年を示す。アルバム発売年時を簡単に確認できる資料を、残念ながら手近に見つけられなかった。

“負ける”Trane

日本における Coltrane の受容はかなり特異だった。彼を或る意味で神格化して祀り上げる風潮が根強くあった。自分がそれなりに本腰を入れてジャズを聴き始めた1980年代後半にも、さすがに消えかけてはいたものの、それはまだ薄く残っていた。彼の音楽には失敗や不出来なものはなく、あらゆる演奏に意味がある。さらには、彼の演奏だけではなく言動すら、ほとんど無謬説と呼んでもかまわないようなもののもとに“解釈”された。そんな時期が長く続いていたのだった。

いま振り返ると不思議だが、Coltrane の神格化は一体何に淵源があったのだろうか。「至上の愛(A Love Supreme)」「昇天(Ascension)」「オーム(Om)」といったアルバム標題の宗教的な含意のせいか? あるいは彼が来日公演に先立つ記者会見で「グルになりたい」と言ったからか?  後者について言えば、現代まで連綿と続く信仰と思想と生活習俗との混合たるヒンドゥイズムの文脈では、guru はあくまで師匠であって必ずしも即“聖者”を意味しない。

私自身はといえば、古本屋を覗いては当時まだ店頭に出ていた“コルトレーン教”信者たちが書いた本(多くは70年代に公刊された)を意図的に買い漁っていた。かぶれていたのだ。だが、同じく“信者”を自認しながらも、私は次第に彼の演奏を聴き込むたびにどこか坐りの悪さを感じるようになっていた。坐りが悪いというか、端的にはくどくて煩わしい。

決定的だったのは、ひととおり主要なアルバムを聴き終え、自らのコンボに Eric Dolphy を迎えて新しい音を模索していた時期のライヴ、Coltrane が生前はリリース(しようとは)しなかった音源を聴いたことだった。Trane は Dolphy に負けている。完敗と言ってもいいくらいに。

勝ち負けを言うのはおかしいかもしれない。しかし、楽器を演奏できない自分が想像できるかぎり、独奏楽器を自在に操る二人のミュージシャンが組んでアドリブに臨むときの事情は、たとえば剣道の試合で一礼して竹刀を構えつつ蹲踞し、いざ立って対峙し、主審から「始め」の声が掛けられるのを待つのと、少なくとも気構えの点ではどこか似ていないだろうか? そして、この二人が同じ曲でアドリブのソロを応酬すると、Dolphy が軽やかに駆け抜け、爽快に息をついて休んでいるのに対して、Coltrane は疲労困憊して息絶え絶えにへたり込み、それでもまだ走ろうとしている……ような印象を受けた。

“強迫神経症”

古本屋を漁って集めた“コルトレーン本”のなかに、後藤雅洋が書いた文章があった。たしかもう20年近く前に出た『ジャズ批評』別冊(?)コルトレーン特集だったと思う。当時判明していたかぎりでのディスコグラフィとセッション・データを本文にしてアルバムごとに評論家がコメントを書き、息抜きにところどころへ評論家やミュージシャンのコラムのような文章を(これは各篇1頁当てで)載せたものだった(毎度のことながら、先日来この本をさんざ探していたのだが結局まだ出てこない)。その一文には、強く記憶に残っているこの引用が掲げられていた:

〔  〕内は後藤氏の引用にはなかったかもしれない。文は青空文庫で公開されている『行人』テキスト・ファイル版の当該箇所をそのまま使わせていただいた。記して感謝します。

後藤氏は、周知のとおり Coltrane の音楽(と、彼に対するこの国における一般的な評価)に相当批判的だった(音楽雑誌をもう長らく読まないし、後藤さんの著書も全部を拝読したわけではないので、現在どうなのかは不詳)。この“コルトレーン別冊”での彼の一文も、当然その線に沿っていた。それを差し引いても、Coltrane の演奏に自分が感じたうるささ、一種息詰まるような閉塞した感じを、この漱石の一節は実に的確に言い表していると、これを読んだとき思えた。

現物に当たることもできず正確に思い出すこともできないので、著者の後藤氏にもこの拙文をいま読んでくださっている方にも大変申し訳ないのだが、この一文の地の文には、たしかこんなニュアンスのことが書かれていたように思う: “演奏家はアドリブを始める前に真っ暗な闇のとば口に立つ。それからそこへ一直線に飛び込み、とにかく音を出さなければならない。何もみえない。ただ前へ前へと進まなければならないことはわかっている”……。

この後藤氏の一文、そしてそこに引用された漱石の文章に、私は決定的な影響を受けた。ひとたび Coltrane のアドリブに謂わば“強迫神経症”のような影をみてしまうと、彼の真に優れた演奏にすら、それに似たものをこちらが勝手に読み込んでしまう時期がかなり長く続いた。後藤さんはたしか別のところで、こんなようなことも書いていた: “コルトレーンのソロは後ろ向きだ。言いたいことがたくさんあって、それを限られた時間に言い切ろうとする、それでも吹いた先から言い残したことが気になって、いつも自分の来た方角を振り返って見てばかりいる”……。そして私は、Coltrane に関して最後には聴いてみようとしてもほとんど生理的に拒絶するようなところまでいった。

「不自由なフリー」

おそらく、Derek Bailey 言うところの「イディオマティック」な枠組(これについては、先日の拙稿で参照している Kompf さんの「Improvisation」をぜひお読みいただくよう、重ねてお願いしたい)のもとに即興演奏を行なうジャズでは、アドリブで演奏するミュージシャンにまったく何も道標がないことはないのだろう。それでもなお、記録され我々がいまも聴くことができる Trane のアドリブの多くは、彼が真の暗闇で苦闘し、飛翔しようとして果たせず、幾度もドタリと倒れてその巨躯を地面にのめり込ませる情景を、聴き手(たる私)に思わせる。

“後ろ向き”云々についても、救いようもないくらいとてつもなく気分が落ち込んだとき、たとえば Crescent (1964) の標題曲や "Wise One""Lonnie's Lament" を聴いてみるとわかる(ような気がするのは、もしかすると自分だけのことか?)。曲自体はどれも美しく悲しく深い。McCoy Tyner のピアノなど涙ものだ。しかしサックスのソロになると、訥弁を通り越してそのまま黙り込んで悶死してしまうのではないかと思わせるほど“止まる”(もちろん印象上のことで、実際に止まることはないのだが)。止まりそうになりながら振り返り振り返り、絞り出すように先に吹いたことをなぞる。もちろん意図的にそのように演奏している側面があるのは私の耳でもわかる。それでも、「本当に大丈夫なのか、Trane?」と、自分のひどい気分をほったらかして訊きたくなるくらいだ。

…………

紛うことなきジャズ・ジャイアンツの一人を、自分はくさし過ぎただろうか。もがき、のたうちまわり、模索する姿は、しばしば言いようのない感動をもたらす。そして無論、Coltrane の演奏が本当に自由に伸び伸びと聴かせることも、疑う余地なくある。近年の自分がどうしても Trane を聴く気になれないのは、もしかしたら自分の弱さや醜さや悲しみや憤り、ありとあらゆるネガティヴなものを、彼の音楽を聴くことで直視しなければならなくなることを怖れているせいかもしれない。そしてそれは彼の演奏がもつ非ではなく、あくまで聴き手たる自分の側の問題だ。

「不自由なフリー」とは、かつて知人の(アマチュア)ジャズ・プレイヤーが冗談めかして自分の演奏を指した表現だ。当の知人はたぶん演奏の技術的水準、楽器のコントロールのことを主に言ったのだろうと思うが、その後ずっと記憶に留まっている。楽器を操る技術の習熟にまつわる不自由さを克服した後にも、いやそれを果たした後だからこそかえって、“思い描いたとおり、スポンテイニアスに”演奏できるかどうかということが、即興演奏するミュージシャンに最大の課題として迫ってくるのではないだろうか。

もし、Coltrane に直接「あなたは不自由なフリー奏者ですね」と尋ねることができたなら、彼は怒っただろうか……いや、おそらくニヤリと笑い、黙って楽器をケースから出して、無伴奏の凄いソロを即座に吹いてみせてくれたかもしれない。そんな気もする。

----------

本稿は、即興演奏の“自由”に関して不十分ながら思ったところを書いた先日の拙稿末尾で「また別稿を期す」と書いたもの……になるはずだったが、冒頭注記したとおり、またまた中途半端なものになってしまった。後藤さんの文章が載った当該の雑誌の所在を図書館の検索で調べたりもしたのだが、結局現物を確保して改めて読むことはできていない。あくまで私の記憶に残っているもの、そこから得たり感じたりしたものの限りを出発点にして書いたものとして、再度御寛恕を請う。

自分が書くものにどうしても何らかのかたちで落ちをつけたい性分なのは、それこそ小学校で作文を書かされていた頃から気づいていたものの、こう毎回のようにスカした(情けないことに本人はそのつもりの)終わり方以外、何ともしようがないものか。「もし……したら」式はここに載せたものだけで数えてももう何度めだろう。しかし上の仮想問答で、こちらの発言の意図と含意とをすべて了解したうえで、Coltrane ならそんなことをしそうな気がするのも、自分にとっては本当のところなのだ。

書いたとおり、Coltrane はもうずっとまともに聴いてはいないものの、この演奏なら延々リピートして聴き続けてもかまわないくらいに好きで、文句なしにすばらしいと思うものもたくさんある。いくつか列挙して結びとしたい:

  • "After the Rain" (アルバム Impressions (1961) 所収)。

    名演なのか名曲なのか……。Come rain or come shine, 悲しいときに良し、嬉しいときに良し。

  • "Someday My Prince Will Come" (Miles Davis 名義の同名アルバム (1961) 所収)。どこかで読んだ(たしかよく知られた)話によれば、この曲での Coltrane の演奏は、ジャズの“模範演奏”のひとつとしてその筋の教育機関で教えられている(いた?)そうだ。

    Trane はこのときすでに Miles のもとを巣立って独立しており、客演というかたち。ここでの彼のソロは、後ろを振り返らず前を見過ぎず、刹那ごとにその瞬間を吹き切っている気がする。当時の Miles コンボのサックス、Hank Mobley は、少なくとも本アルバムでは Trane によるこの1曲の名演のせいで、悲しいくらい霞んでしまっている。

  • さすがにこれをリピートして一度に何回も通して聴くわけにはいかないのだが、The Complete 1961 Village Vanguard Recordings (1961)。この4日間のクラブ・デイト(多数の曲で Dolphy が加わっている)を収めたアルバム(の元になった The Other Village Vanguard Tapes)で、私は Trane が Dolphy に完敗する様を“目撃”した。

    そして奇妙なことに、その The Other... と、Impressions (1961) + Coltrane "Live" at the Village Vanguard (1961) + α で構成されるこのボックス・セット4枚組(CD発売は1997年)を、全体を通して幾度か聴くうちに、実は Trane は負けてばかりいたわけではなく、予想以上にしばしば Dolphy の果敢で手ごわい挑戦を退けていると思えるようになった。(では、本文で書いたことは何だったのか?? いや、しかしまとまった形でこの時のライヴを通して聴いて直前で書いたように感じたことも、これまた本当なのだとしか言い様がない)

  • "Flamenco Sketches""Blue in Green" (Miles Davis 名義 Kind of Blue (1959) 所収)。どちらか一方だけにしようと思ったが無理だった。

    Miles は、ほぼ無名のバッパーで雇ったばかりの頃の、案外引っ込み思案だった Trane にはバリバリ吹かせ、彼を含んだコンボの末期に近づくと、次第に“言い過ぎ”の切り捨てと抑制とをさせるよう、絶妙にコントロールしていた(のだと思う)。

    ここでの Trane は、"Someday..." での演奏とは別の次元で、かつ同時に同じ意味合いで、見事に吹き切っていると感じる。

このところ文字ばかりの記事が続いたので、気分転換のつもりでイメージ画像を掲げてみた。「driving lights 3」と題された coolmio さん(リンク先は順に stock.xchng 内の同作品、および同氏のポートフォリオ)撮影のもの。縮小して使わせていただいた。末筆ながら記して感謝します。

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