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Derek Bailey 著『インプロヴィゼーション』読後

快楽原則の Kompf さんが、2004年9月29日付エントリ「Improvisation」にて興味深い本を紹介しておられたので、読んでみた。著者の経歴や本書の内容概観について、詳しくは Kompf さんによるこの記事をぜひともご覧いただきたいが、備忘も兼ねてここでも書誌を挙げる:

  • Derek Bailey(デレク・ベイリー)著『インプロヴィゼーション:即興演奏の彼方へ』(竹田賢一・木幡和枝・斉藤栄一訳、288頁、工作舎、1981年。原著は Improvisation: its nature and practice in music, Moorland Publishing, 1980)

最初の2章に、即興演奏といえば真っ先に思いつきそうなジャズではなく、インド音楽(シタール)とフラメンコ(・ギター)をもってきているところに、私は著者の意図を感じた。いずれも西洋古典音楽と同様に長い歴史をもちながら、(本書でくりかえし強調されるように)次第に即興演奏を排除してきた西洋古典音楽とは反対に、インプロヴィゼイションを中核に据えて現在まで続いている音楽だ。

つづいて本書全体の構成を概観しておけば、著者が実践するフリー・インプロヴィゼイションについては(当然のごとく?)末尾に置かれる。その間に挟みこむように、西洋でもまだ即興の要素を残していたバロック音楽・教会オルガン音楽が論じられ(第3・4章)、ロックと聴衆(第5・6章)、形骸化を手厳しく指弾されるジャズ(第7章)、そして現代音楽(の、とくに意識的に演奏者による即興をとり込んだもの、第8章)と続く。

本書は巻末「訳者あとがき」にあるように、BBCのラジオ番組(著者発案による)を元に加筆・構成したものの由。おそらく取材相手(多数の演奏家に Bailey が直接インタヴュウしている)の即興演奏を実際に行なっている演奏家による演奏も番組中には流れて、理解に役立っていたに違いない(実際にそうした記述が第1章には出てくる)。そもそも序文で著者自身が:

インプロヴィゼーションはけっしてとどまることなく、つねに変化し状況に合わせて姿を変えているので、分析や精密な説明をするにはあまりにもとらえどころがない。本質的に非アカデミックなのである。そして、それ以上に、インプロヴィゼーションを説明しようとするどのような試みも、ある観点からすれば不誠実にならざるをえない。というのも、進んでインプロヴィゼーションをやろうとする精神の中核には、記述するということの目的と対立し、またその観念と相容れないなにかがあるからなのだ。

「序文」(p.8)

と述べているように、本書は音楽を、なかでも即興演奏を言葉で語ることの困難を十分に認識し、また前提としている。もっぱら聴くばかりでまともな演奏技術や実際の演奏経験をもたない自分にとっては、卓越した演奏家同士の対話を中心とした記述には、正直に言って随所に理解しきれないところが残った。豊富な演奏の実例を交えて、ラジオ番組としても聴いてみたかったと思う所以だ。それでも非常に示唆的な、いろいろ考えを誘うものが多数詰まっており、ページ数から予想される以上の豊富な内容があると感じた。

以下では、本書読後にいろいろ愚考をめぐらせたことのいくつかを書く。着手してからかなり時間が経過し、その間に試行錯誤をくり返したが、まとまったものには結局なっていない。言い訳めくが、こうしたことには正解はないだろうし、反面とっくの昔にどこかで誰かがすっきりと書き尽くしている(けれども自分はそれを知らない)ような気もする。

したがって、本稿は厳密には上掲書の読後感ではなく、むろんきちんとした書評でもない。標題はあくまで苦しまぎれにつけたもの。また、結果的にウェブ上で以下に挙げる諸所に散在することになった諸氏による記事・コメントの内容を一部前提としている(公開日時順):

  1. 2004年7月10日付、Arvo Pärt の Cantus in memory of Benjamin Britten を、今回同様 Kompf さんが書かれた記事に誘われて聴き、感銘を受けて書いた拙稿(こちらが移転前の所在です)、および(拙サイト移転前の)同稿コメント欄での Kompf さんと私自身とのやりとり

  2. Kompf さんが以前ご自分のウェブログで即興演奏をめぐって書かれた2004年7月23日付「考え中」、および同記事へのコメント欄における Kompf さん、ユリウスさんGolconda さん(お二方のリンク先はそれぞれのウェブログ)、さらに私自身のコメント

  3. そして、上掲の Kompf さんによる本書に関する2004年9月29日付記事

拙サイト内のものも含め、関連する上掲3記事にトラックバックを送ります。Bailey のこの著書からの引用も含めるとかなり長くなるので、以下は「続きを読む」にて。(なお、上掲それぞれの記事またはコメントを指示する場合、(1)・(2)・(3)と略記)

〔04年11月5日追記〕Kompf さんの(2)へ宛てたトラックバックは、こちらから同時に発信したため(おそらく連続トラックバックによるスパム防止のためのココログ側のシステム設定により)不達でした。

再び、イデアとしての“純粋音楽”

フリー・インプロヴィゼイションの実践者としての Bailey にとって、本書における“仮想敵”は、音楽における演奏と作曲(と言い換えていいものか、多分に疑わしい。以下の引用では「音楽創造」と呼ばれている)との乖離だろう。これについて彼はこう述べている:

多くの演奏者が、音楽の演奏をなんらかのアンサンブルの中で高度な技術をもって行為することだと考えていることは否定できない。そこにはそれなりの満足があることもたしかだ。だがその役割のみのためのトレーニングを受けているということは、インプロヴィゼーションをするためにはおそらく最悪の条件かもしれない、と私はいいたい。そういったトレーニングからくる最大の障害は、音楽創造に対して救いがたい聖職意識が身についてしまうことだ。その根底には、演奏と創造とを物理的、ヒエラルキー的に分離してみる考え方がある。そこからインプロヴィゼーションを冒涜的な行為とさえみなす観点がでてくるのだ。

第8章「現代音楽」即興のできない演奏家(pp.156–157)

ここで念頭に置かれているのは、ほぼ間違いなく西洋古典音楽における作曲家と演奏家との分離だ。しかし、Kompf さんも(3)本文で述べておられるように、上で Bailey が示唆しているように読める“作曲家(あるいは楽譜)に拝跪/奉仕する演奏家”(さらには下ってそれをありがたく拝聴する聴き手)という図式は、いささか行き過ぎという感を受けないでもない。同じく Kompf さんが(2)のコメントで紹介された Debussy のように、近代の西洋古典音楽において作曲家が自ら自作を演奏しつつ、楽譜を逸脱して演奏を行なった実例もあるそうだ。

また、上の Bailey の謂いは、表現者としての演奏家がもつ役割や価値を過度に貶める(ものとして読まれうる)危険を孕んでいる。西洋古典音楽の演奏家は楽譜に書かれていないことを本当に一切してはいけないのかどうか、私はよく知らない。しかし仮に彼らがスタティックに固定された楽譜の(ひいてはそれを書いた作曲家による)“縛り”の範囲内に大原則として留まらねばならないとしても、演奏家にとってそこに自由がないとは、どうやら断言できないらしい。(1)コメント欄での Kompf さんのご指摘、また(2)において、噺の筋や落ち(楽譜)があらかじめわかっていてなお演者(演奏家)によってはおもしろい落語に喩えられたユリウスさん、建築物の設計図(作曲家と楽譜)と施工(演奏者)に喩えられた Golconda さんのおっしゃることは、私にもよくわかる。

だが、演奏と「創造」との間の或る意味で決定的な分離(あるいは隔絶)、そして後者優位の序列化に対して Bailey が抱く苛立ちの激しさは、彼が自身の演奏を通じて追い求める音楽の在り様からすれば理解できる。著者は、自らが行なうフリー・インプロヴィゼイションに関してこう述べている:

……だがそれ〔=フリー・インプロヴィゼイション〕がなにかをつかみ、さらに持続するのはむずかしい。よくある傾向としては、容易に見分けのつく領域――ジャズとかコメディ、あるいはギャヴィン〔=Gavin Bryars〕が語ったような一目瞭然の形式など――になしくずし的に移行してしまうことである。もう一つの問題としては、同じ状況や同じグループで演奏するのが長くなればなるほど、“フリー”云々と呼ぶのが当たらない演奏になっていってしまう。これはソロの場合でももちろん同じだ。たいていは個人の人格と結びついて、あのプレイヤー、あのグループのやり方といったふうに、アイデンティティーが決まってしまうのだ。ある日突然、“私の音楽”を行商している自分に気づく。この枯渇化に対抗する方法は、できるだけ多くの異なる種類の即興演奏家と共演することだろう。

第9章「フリー・インプロヴィゼーション」インプロヴィゼーションへの批判(pp.236–237)

ここで著者が言っていることはラディカルで厳しい。演奏者(やその集団)の個性すら、少なくとも一聴して判然とするようなものは安直だから捨て去るべきだとしている。あらゆる固定化(“淀み”)・形式化を束縛とみなし峻拒する意志を示しているという点で、原理主義的と言ってもいい。

こうした Bailey の立場からすれば、作曲家が(比喩的に言って)演奏の現場に居合わせることなく特権的な地位を保ち、楽譜を通じて演奏家を“支配”することなど、いくら演奏家に解釈と表現の余地が与えられていたとしても、到底認められないに違いない。演奏者が従わなければならないものがある時点ですでに彼/彼女は自由ではなく、そうした条件下で彼/彼女の手にしているものなど端から自由と呼ぶに値しない、ということなのだろう。

一方で著者は、上掲引用箇所の直後に、Gavin Bryars の以下のような見解を紹介している:

いま私がインプロヴィゼーションに反対しているおもな理由のひとつは音楽とそれを創造している人物とがかならず同一視されてしまうことだ。二つが同義的なものとみなされる。目の前に音楽を生みだしているつくり手がいるために、人物と言葉、音楽と人物が同一視される。まるで絵の脇に画家を立たせて、絵を見るとかならず画家が目に入るようにするようなものじゃないだろうか。画家抜きで絵を見ることはできない。そのために、インプロヴィゼーションでは、音楽じたいが自立することができない。身体をともなっていないとだめなんだ。禅やケージの研究をした私は、自分のつくったものから離れるという立場をとる。自分のやっていることとの間に距離をおく。ところが、インプロヴィゼーションではそれができない。作曲なら、書いたものが演奏される現場にいなくてもかまわない。もう概念化されてしまったものなのだから。現実より、概念のほうが私には興味がある。具体的現実でないものでも、考えることはできるのだから。ところが自分がそれを演奏し、その現場にいるとなると、これは現実だ。概念ではない。

(p.237)

ここで Bryars は、“創造”(≒作曲?)しつつ演奏するインプロヴァイザの存在そのものが、創られ(つつあ)る音楽にとっては邪魔だと言っているように読める。Bailey に負けず劣らず随分とラディカルな物言いだ。そしてこれを敷衍すればおそらくこうなる――“作曲家たる私が書いた時点で音楽はすでに創られ完成している。最早そこには私自身すらいない。もちろん演奏も演奏者も不要”。次元の低い口論を勝手に妄想すれば(もちろんこの二人がこんな非難合戦をしないのは確実だ)、インプロヴァイザとしての Bailey からすれば、自分で音も出さないのに何様のつもりだということになろうし、作曲家の Bryars にしてみれば、すでに出来上がったものの夾雑物にならぬよう演奏家はせいぜい目立たないようにしていろ、ということだろう。

しかしおそらくこの(かつては同じグループで演奏していた)二人が志向するものは同じだ:こじつけめいて聞こえたら申し訳ないが、(1)で私が書いた「イデアとしての“純粋音楽”」のようなもの。〔以下、さらに続けようとして挫折、当面はこのまま放置〕

“彼方”

ほとんど引用の羅列になってしまうが、本書でミュージシャンたちが語ったことで、非常に似通っていておもしろいなと感じた言い方がある。たとえば、ジャズ・サックス奏者の Steve Lacy:

私がインプロヴィゼーションに魅かれるのは、私にとって大切なものがそこにあるからです。それは新鮮さであり、ある特質であって、インプロヴィゼーションでなくてはえられないものです。それは、曲を書くことではおそらくえられません。それは“境界”に関係しているものです。いつでも知られざるものの淵にいて、跳躍の準備をしておくこと。そしていざ向こうへ行こうというときには、準備にかけた歳月、感受性、準備した手段がすべて手元にあり、あとは知られざるものへひと跳びするだけです。その跳躍をとおして見つけたものは、いかなるほかの方法でも見出しえないとおもわれる価値があります。私はそのことに、準備することのできるもの以上の価値をおきます。でも私は、準備することのできるものにもまだこだわっています。とくに、準備することのできるものが、私を境界まで連れていってくれる間は。私が曲を書くのは、境界まで無事に連れていってくれて、向こうへ飛び出し、別のものを見つけるためです。しかし、この別のものに私の真の興味はあるのです。そしてそれこそがジャズの基盤を形成しているものだとおもいます。

第7章「ジャズ」(pp.138–139)

この「“境界”」について、Lacy はこうも語っている:

私にとって、音楽はつねに――境界――知られたものと知られざるものとの間にあるべきものです。そしていつも知られざるもののほうへ押し動かしていないと、死んでしまうのです。

第8章「現代音楽」(pp.132–133)

クラリネット奏者の Anthony Pay:

純粋に記譜されたものに対して修練を積み、正確で真剣、夢中になりつつ、なお自由でいられる、譜面が生みだす規制の枠外に出ることができる、その状況にあった自分の表現ができる――これができたら、それこそ最高の器楽演奏家だとおもう。偉大な演奏家にしかこんなことはできないし、それができるということは、まさに楽器から自立している証だ。

第8章「現代音楽」(p.171)

パーカッショニストの Jamie Muir(!):

別のいい方をすると、ぼくは骨董屋より廃物屋のほうが好きだということだ。骨董屋には掘り出し物はない――骨董屋に並んでいるのはすでに“発見された”〔“ ”内は傍点付き強調〕ものばかりだが、廃物屋に並んでいるのは集められたものにすぎない。さらにいえばゴミの山だ。これは発見も収集もされていない。むしろ完全に拒絶されたものばかりだ。まだ発見されない、名前のない、所有権のない、探検されていない領土。今後、見えてくるかもしれない未来だともいえる。……

……演奏の場面でまだ発見されていないものを発見するということは、とりもなおさず、それら(雲状にひろがる未知のもの)を名づけてしまう恐れのある状況は、どんなものでもただちに拒絶するということだろう。それによって音楽の未来は拓かれるのだ。

第9章「フリー・インプロヴィゼーション」(pp.204–205)

「知られざるもの」「別のもの」「枠外」「探検されていない領土」「雲状にひろがる未知のもの」……あちら側、“彼方”。Lacy や Muir が明らかにしているように、これに対置される“こちら側”とは、あらかじめ準備された、あるいは演奏家にとってはすでに了解済みのもののことだ。具体的にはたぶん楽譜や Bailey がいう“イディオム”(Kompf さんの(3)を参照されたい)を指すのだろう。本書の主題から当然ではあるが、いずれも演奏家の言だ。しかし同時に、こうした言い方は、演奏がまさに行なわれている現場、そしてそこに確固として在る演奏家の身体抜きには成り立たないような気もする。

作曲家が自身の創作活動について尋ねられたら、いったいどんな表現をするのだろうか。

さらにいくつかの覚書……

ご覧のとおり本稿はどこへも“着地”しておらず、無理やりの軟着陸すら自分の能力ではおぼつかない。とにかくいろいろなことを考えさせてくれる種の詰まった本だった。今後もさまざまな音楽を聴き、また折にふれて考え続けることにしよう。さらにとりとめもないことをいくつかメモ代わりに書き留めて、一応の終わりとしたい。

読んで刺戟を受けるうちに、だんだん何が問題なのかかえってわからなくなってしまった。そもそも(1)の拙稿がきわめて雑駁で、話題があちらこちらへ飛んでまとまりがついていない。作曲者と演奏者、イディオムの有無、自由と制約、イデア的なものと現実の音楽作品……等々、二項補完的な軸をいくつか立てて、マトリクスを作れば整理できるかと思って試みたが、うまくいかなかった。

自分の関心の所在から言えば、本書の主題は音楽そのものよりもむしろ“自由”に関わっている。また、いちばん最初に引いた本書「序文」で述べられている内容から、たぶん誰もが連想するインプロヴィゼイションと禅との類比を、私も思った。著者の Bailey による演奏は、私自身は自分が好んで聴いてきたミュージシャンのアルバムに客演したものをごく限られた数聴いたことがある程度で、残念ながらよく知らない。彼が本書で費やした言葉から窺える真率さの趣きは、いささか『臨済録』の剛直(もっともこの禅の書物ほど徹底的に突き放してはいないだろうが)に似ていなくもないと感じた。

勢いに乗ってついでに書く。仮に本書が禅家の言行録たる“語録”に相当するとすれば、記録された演奏家の言葉に加えて、彼らの行跡としての実際の演奏を聴いてみるべきなのだろう。そして禅家によっては“坐ってみなければわかるわけがない”といった趣旨のことを口にするのと同様に、おそらくインプロヴィゼイションの核心は、演奏者にしか理解できないのだろう。座禅の物まねくらいはこの先死ぬまでに試みることがあるかもしれないが、何か楽器をひとつきちんと修めておけばよかった。

ロックをとりあげた本書の第5・6章は、ほとんどが Yes のギタリスト Steve Howe 一人へのインタヴュウに基づいている。Yes のアルバムは長い活動休止期間の前までのものはひととおり聴いているが、Howe のギターをほとんど一度もおもしろいと思ったことがない。即興演奏を大幅に取り入れたロックには、本書刊行時点でも別のアプローチの仕方があったように感じ(たとえば Gong, 一時期の King Crimson, Soft Machine..., 本来ならば選り取り見取りのはずだ)、自分には残念だった。

ジャズにおける即興演奏のあり方は、本書では“フリー・ジャズ”のごく初期を除いて痛烈に批判されている。ジャズを聴き始めたのが遅かった私でも、わかったつもりで「ああ、またこのパターンでやっているな」と感じてついおざなりに聴き流してしまう演奏は多い。それでも、ジャズに限らず即興演奏を重視する音楽では、時に魔術的(マジカル)だと思えるほどの陶酔と興奮をもたらしてくれる演奏に出遭う。それは、自発性(英語でいう "spontaneity")が、聴いている(だけの)こちら側にも伝わるからだという気がずっとしている。西洋古典音楽に spontaneity を感じられないのは、(2)の自分のコメントで書いたとおり、私自身に決定的に鑑賞能力が欠けているせいだとは思うが、個人的に Bailey の苛立ちにも共感するところ大だった。この苛立ちはやはり、「結局楽譜に書いてあるじゃないか」というものではないだろうか。西洋古典音楽においては、或る意味で構造的に制限が組み込まれて制度化されている。

その一方で、即興演奏によって創られさえすれば、その音楽が即座に自由ですばらしいものになる、というような甘い事態もまた存在しないことも明白だ。これについては、また別稿を期す。

〔05年7月4日追記〕 本稿でとり上げている Bailey の著書に関して、Sir Walter Raleigh の tazzy さんから6月25日にコメントを頂戴した。こちらから無理を申し上げて、以下コメント欄のとおり、お寄せいただいたコメントを本稿宛てに転記させていただいた。ご協力に感謝します。

なお、tazzy さんは 「ジャズの名曲 世界の名曲:インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ」(05年6月29日付)で、この Bailey の著書の書評を公開された。tazzy さんのこのエントリには、(私はご挨拶も兼ねて毎度のごとく拙いコメントを書いてしまったが)上掲拙稿冒頭でもふれているとおり、私にこの大変興味の尽きない本をご紹介くださった 快楽原則 の Kompf さんもコメントを寄せておられる。

さまざまな視点・関心から同じ著作が読み手各自にどのような印象を与え、何を考えさせたか、拙文は別にして非常に興味深い。拙稿の最初の公開場所から移転が重なり、関連するコメント類が結果的に散在してしまったのは誠に申し訳ないかぎりだが、関心を抱かれた向きには、Kompf さん・tazzy さんがお書きになったものをぜひお読みいただくよう、再度お勧めしたい。 〔05年7月4日追記終〕

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アドリブの闇と泥沼:John Coltrane
ここ数年、Coltrane をまともに聴いていない。自分にとって Coltrane は、自らの意思でジャズを聴き始めたいちばん最初に出遭ったミュージシャンだった。多くのジャズ好きがやるように、私も彼のリーダー作はほぼ
from Night rain, in winter... | at 01:15 on 2006/08/04 |
Comments
初めましてm(_ _)m
ベイリーで検索してたどりつきました・・・
僕がベイリーの著書に出会ったのは85年頃だとおもいます。
それ以来繰り返し読んでいるのですが、即興を音楽の側面から見た場合の意見だと常に考えて来ました。よって足りない部分も多々あります。。。
即興を表現の手段として最初に用いたのはイタリア未来派のマリネッティですが、その事には触れていません。そして、即興が持つ危険性にも触れていません。即興の基本理念はテロリズムであることを、それに携わる芸術家は認めねばならないと思います。僕も少しずつですが意見をまとめていますので、宜しければ御意見などカキコしてください。。。m(_ _)m
| tazzy (URL) | at 21:10 on 2005/06/27 |
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