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“未青年”の死と三島由紀夫

学生時代、偶然目にした三島由紀夫の書いた文章に誘われて読んだ著者がいた。そのなかで最も印象深いのは二人。一人は美術史家/ジャーナリストの Gustav René Hocke(グスタフ・ルネ・ホッケ、1908–1985)、もう一人が歌人の春日井建だった。

春日井建は3カ月ほど溯る今年(2004年)5月22日、長らく患っていた(ということを訃報で初めて知った)癌で亡くなった。昭和13(1938)年生まれ、享年65歳。新聞やウェブ上で見かけた訃報には、「三島由紀夫が『われわれは一人の若い定家を持った』と絶讃した歌集『未青年』の」といった修飾が、枕詞のようにほとんど必ずついていた。私自身がもつ春日井建の歌業についての認識も、残念ながらあたかも予定稿のようなこうした言い廻しが示すところを超えていない。名高い『未青年』(1960)は幾度も読んだが、読むたびにどこかで拒絶され入り込めないもどかしさを感じていた。

追悼するには既にはるかに時機を逸しているし、上述のとおり私は春日井建の短歌のよい読者だったことは一度もない。訃報を耳にしてからまた幾度か、もう二十年以上も昔に買った『春日井建歌集』(国文社・現代歌人文庫、初版1977年)を読み返している。巻頭の歌人ポートレイトが武田花撮影だったことに迂闊にも初めて気づく。冬や雪を詠み込んだ歌が多いと感じる:

集は異なるが:

一方で、これは炎暑の夕景なのだろうか……? 『未青年』劈頭を飾った一首:

春日井建のこうした歌をことさらに採って掲げることに、何かの意味があるのだろうか……引用しつつ疑問に感じる。『未青年』はいまの私が読んでも、その題名がほかに言いようがないほど的確に表しているように「“未青年”による/についての」歌で、罪と軛について、(同)性愛について、“父と母と兄と妹と‘我’”についての歌だと思える。ここでは、そうした色彩が薄いとかろうじて思われるものばかりを意図的に引いた。歌われていることが虚構であれ事実であれ、歌集としてのその総体は、私にはやはり今も昔も近寄りがたい。齢を重ねてゆくこの先ますます、春日井建のこの処女歌集の境涯を理解しうるところから遠ざかるばかりだ。

逝去から数カ月後の今になってここで書くのもおかしいが、御冥福を祈ります。

以下は、読み返して改めて目に留まった『未青年』所収のよく知られた次の一首:

にいささか関わる、文字通りの随感です。

マニエリストとしての三島由紀夫

三島由紀夫が Hocke の主著のひとつ『迷宮としての世界』(Die Welt als Labyrinth (1957))邦訳(1966、種村季弘・矢川澄子訳、美術出版社刊。絶版の由)に寄せた文章は、よく知られたものらしい。「未聞の世界ひらく」と題する250字足らずの短いものだ。私自身は初めて読んだ当時、この推薦文が有名な文章だとは知らなかったが、新約聖書『ヨハネ黙示録』を借りたそのアジティションのような表現に、一種異様な迫力を感じた(私が持っている『迷宮……』の和訳は1981年上製本新装版で、以下はそのカヴァ背表紙側上段に大きく組まれている):

徹底して意識的なマニエリストとしての三島に自分が気づいたのは、たぶん Hocke のこの大著を読んだ後だったのだろう。そのことにようやく気づいた目で改めてこの文章を読むと、ほとんど三島自らがマニエリストであることを自身でマニフェストしているようにしか思えなくなった。しかしすでにこの推薦文に先立つ6年前、1960年に、三島は春日井建の『未青年』のために物した序でこう書いていた:

この段落の後半で言われていることは、おそらく三島の指摘どおりなのだろうとは思う。しかし上述のとおり、私には春日井建の歌に「裏返しの海老」のような、あるいは「びくびくと慄へてゐる」「……肉」の抒情を感じることはたぶん一度もなかった。そこには巧緻な虚構の世界が隙なく築かれていて、三島の謂いを借りるなら、一人の読者としての私はこの胸甲という外殻に決定的に撥じかれていたような気がする。三島が春日井建を定家に比したのは、少なくともこの意味では真に適切というほかない。定家の歌もまた、その大半が私にはあまりに作り物めいていて、ほとんど響いてくるところがない。彼らの歌は読み手を択ぶ。高踏的な世界から拒絶されるのは惨めなものだ。

それはそれとして、ここで「胸甲」や「鎧ふ」と言われているものもまた、“表面の/のみを追求する美学”と言い換えてもいいような、三島自身のマニエリズム志向の形容にほかならないように思える。春日井建のことを語りつつ、実は三島は己れ自身を解説しているかのように感じるのは、私の錯覚か。

マニエリストとしての三島の全貌を描くには、たぶん Hocke が広く資料と作品を渉猟していかにもゲルマン的にがっちりと地盤固めをしたのと同種の企てが必要だ。失敗作と断じられることが多い『鏡子の家』『禁色』を集中的に攻めなければならないだろう。私が可能なかぎり目を通した三島に関する評論(学術雑誌掲載のものは読んでいないが)では、残念ながらこうした視点から三島を論じたものはなかった。本稿では文芸でいうマニエリズムやマニエリスト作家とは何かという定義を下すことさえしていない。端的に言ってそれを果たす能力が自分には欠けているせいだが、三島歿後四半世紀をすら10年近く越えようとしている今、そろそろ「それについてはこれを参照されたし」と送ることができる評論が出てきてほしいものだと思う。

結局、単に長く引用しただけになってしまったが、ここで引いたものは自分の裡ではマニエリスト三島を解明するために役に立つ2本の“補助線”のようなものだと、長年考えてきた。補助線を引いた図式を眺めているばかりで何も物にはなっていないことについては、忸怩たる思いがする。

霊を吐く/霊を見る

これもまた自分勝手な思い込みなのだが、最後に引いた春日井建の「火祭り……」の一首を読むと、三島由紀夫の最末期の短篇「蘭陵王」のことを思い出す。わずか400字詰め15枚強の小品で、これを収めた新潮文庫『鍵のかかる部屋』巻末解説(田中美代子氏、1979年12月付)によると、執筆は昭和44年11月。この短篇もまた、一種異様な迫力と緊張感を全篇を通じて漲らせている。三島が「楯の会」で行なった戦闘訓練合宿(!)でのひとコマを描いている。この合宿に参加した青年「S」が横笛をたしなんでいるといい、夜になって「私」が請うてSの演奏を聴くことになる。

この作品におけるSが吹奏する雅楽「蘭陵王」の描写は、三島が描いた“音楽”のなかでおそらく最も精彩に富んでいる。厳密に出現頻度を記録してみたことはないが、三島の文章のなかには「音楽のような」という直喩がしばしば現れる。しかしその“音楽”の内実を具体的に描写して読ませる例は案外少ない、というよりもほとんどない。それがこの短篇では、約4枚にわたってSが吹く笛の音と曲にまつわる描写が続く。

これが、三島がその自裁へと到る道筋をすでに心に決めていたからなしえた表現なのか、はたまた三島の作品における“音楽”は、私が漠然とした印象を抱いているように本当にほとんど直喩でのみ使われているのか、それはわからないが、これもまた三島をまとまって読んでからずっと心に掛かっていることのひとつだ。

「蘭陵王」は末尾もまたとくに印象深い:

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……またもやまとまらないものを書いてしまった。春日井建についてどころか、三島についてでもなくもちろんマニエリズムについてでもない。散漫でメモにすらなっていない。最後まで通読してくださった方にお詫びします。

この文字通りの拙文は別として、三島の短篇「蘭陵王」はお勧めです。生前の三島が自作短篇の代表作として「憂国」を推していたのはよく知られているが、もし彼が長生きしていれば「蘭陵王」をも自薦したのではないか、と私は勝手に思っています。

本稿でふれた書籍について補足しておきます:

  • 残念ながら絶版の Hocke『迷宮としての世界』は、復刊リクエスト復刊ドットコムで継続中(要100票のところ、ただいま12票)。息の長かった本なので、自治体図書館中央館などにはたいてい蔵書となっていると思われる。ただし、この本で Hocke が採用したやり方については「ただ単にコレクションしただけ」という批判もある。これはやや言い過ぎの側面もあるが、当たっていないこともない。

    なお、Hocke その人については、英文だが Literary Legacy: Gustav René Hocke(リンク先はドイツの文芸エイジェントのサイト内)がまとまっている。

  • 春日井建の歌集については、国文社現代歌人文庫のほかに、短歌新聞社短歌新聞社文庫から『未青年』が歌集単独のかたちで出ているようだ(同社サイト当該頁にはなぜかリストアップされていない)。

  • 備忘。三島の「蘭陵王」は、自筆原稿影印本が出ていた模様。今回ウェブ上を検索してみて初めて知った。

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