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京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

この連休中にようやく読了。

本作は、自分にとってはこれまでの“京極堂シリーズ”長篇作品のうちでも類がないほど読みづらく、全体の5分の4くらいに到って中禅寺がようやく事件後の“解決”シーンに登場するまで、読むのを夥しい回数中断した。

いっぽうで、読み進む勢いがついてきて引き込まれた終局に到って、不覚にもひどくこたえた。最終章での木場刑事と伊庭元刑事とのべらんめえの応酬には救われる。末尾の一文……そう、そしてまた夏がめぐってきていた。

食い足りない気分もたしかに残る。しかしまた再読、三読するだろう。

書誌は、京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(2003年8月、講談社(講談社ノベルス)、752頁、本体価格1500円)。今年の9月に文庫落ちする……ことはさすがにないか。

以下は単なる覚書の域を出ず、また不用意/無自覚にいわゆる“ネタバレ”を犯す懼れもあるため、すべて「続きを読む」にて。

日本の土着信仰のいくつかの側面(『姑獲鳥の夏』)・同じく土着化したキリスト教とその裏面としての悪魔崇拝、そしてその間に挟まれるユダヤ教(『絡新婦の理』)・神道とキリスト教とフロイト(『狂骨の夢』)・禅(『鉄鼠の檻』)・生命論(『魍魎の匣』)・洗脳(『塗仏の宴』、しかしこの割り振りはそれこそ過度に図式的か)等々……。“京極堂シリーズ”で京極夏彦は、主要な宗教や思想、およびそれらが孕む難題を次々と作品に取り込んできた。そして、太平洋戦争後、つまりあらゆる価値観が一度壊され否定され、かつ大量死が日常化した数年間を経過した後といういわゆる“戦後”、一種の真空地帯と化した日本という設定のもとで、鮮やかにそれら宗教や思想的課題が意味する/意味しうるところを切って見せてくれた。京極について出た“蘊蓄本”のどれかで、たとえばフロイトの日本における受容/浸透の進展具合の実際と本シリーズのこの時代設定との間に齟齬があることが指摘されていたが、それはそれ。読む側の私にはそもそも昭和20年代のこの国で生きていた経験はなく、ここ数年街中で時々見かける、戦後日本のレトロな雰囲気を再現した飲み屋(個人的にじっさいにそうした店で飲んだことはないが)の中を覗き込むような感じで、「こんな感じだったんだろうな」くらいのリアルさを感じられれば、あとは作者が何をやろうが、それが作中での必然性と斉合性を損なわず説得力をもっているかぎり、大歓迎だ。

ただ、『陰摩羅鬼の瑕』をとても読みづらいと自分が感じたのには、土着信仰・神道・キリスト教・禅ときて「今度は儒教か、ちょっと図式的に過ぎるのではないか」と鼻白む印象がついてまわったせいもある。ろくに主要典籍を読み込みもせず完全な食わず嫌いは自覚しているが、もともと個人的に儒教(というよりも本作でいう「儒学」のほうだろうが)はこれまで一度もおもしろいと思ったことがない。世知の集積(と読めること)自体は結構なことだが、だからどうした、この歳になって汚らわしいと青臭いことまでは言わずとも、それほど後生大事に墨守し続けなければならないほどのものか、という先入観が邪魔をする。(以上は、儒教あるいは儒学にもきわめて尖鋭的/根源的/同時代的な側面があることをいちおう承知したうえで、意図的にバッサリと切り捨てた謂いにて。重ねて念のため)。

きわめて私的な儒教への毛嫌いと、それに起因してこちらが一方的に感じたとっつきにくさは別にして……この作品を読み終えた今でも、本作で作家が儒教に取り組んだこと/儒教を取り込んだことは、たとえば『鉄鼠の檻』での禅との格闘と比較して奏功していない気がしている。ハイデガーや“「事」と「物」”などに関する中禅寺の本作での饒舌は、「こんなネタも入れてみました」程度の上滑りした印象しか残らないのは残念だ。

それでも私はこの小説を読んで、終盤でひどくやられた。参ったな……と読みながら思っていた。

私は推理小説/ミステリの良い読者だったことは一度もない。謎解きに対する興味はほぼ皆無だ。アリバイ工作の手法や殺人のトリックを読み解き犯人を当てることを、苦痛としか感じられない性質(たち)らしい。思い立って「新本格」の作家を遅れて数年前にまとめて読んだが、彼らの多くが謎解きの論理(?)性に主眼を置いていること(だから「新“本格”」なわけだから当然なのだろうが)と、もうひとつ別の否定的な印象を受けたこと(省略)から、もう彼らの作品を自分から進んで読むことはほぼないだろう。また、一時期シャーロキアンを気取ろうとしたこともあるが、それはパイプとタバコに愛煙家が蘊蓄を傾けるのと同種の、いい大人が他愛もないことに血道を上げて遊ぶさま、そうしたことをする“余裕”のようなものに興趣と憧れを覚えたからにすぎない。自分にとてもそんな余裕がないことを悟ると、ホームズ物の“正典(canon)”を読み込んで何か独自説を物してやろうと意気込むより、歴代の大物シャーロキアンが精魂込めて書いたものを読んだほうがはるかにおもしろくなり、以後それしかしていない。

だから、京極夏彦の書いたものを謎解きという観点から読んだことは自分には一度もない。そもそもそのように読んだり論じたりする能力も知識もない。私がこの作家の作品(とりわけ“中禅寺シリーズ”とその外伝)に感じる魅力は、(大仰な物言いになってしまうが)“見えている/見ている”現実の、或る世界観/認識のバイアスに基づく変貌の仕方、世界の切り取り方/切り取られ方の多様性……そんなようなものだ。だから、中禅寺秋彦が憑物落としとして能弁に饒舌に語る“真実”や“真相”と、鬱病で自己/自我の崩壊寸前の領域にいつもいて茫漠とした現実認識しか持ちえない(ものとして描かれる)幻想文学作家・関口巽の見ている世界と、かつて他者が経験した現実の影像のみが意味抜きで見えてしまう、文字通り生まれついて特権的探偵たる榎木津礼二郎が生きている現実とは、いずれも等価で同じように興味深い。ただ一点、中禅寺だけが、他の作中人物がそれぞれ生きまた見ているさまざまな現実をさらに解釈し“合理的に”説明できる能力を与えられているという点で特異だ。しかし、それすら実は京極堂が(事件の関係者に取り憑いたものを落とすという特定の目的のもとで)択び取った、無数にあ(りう)る“現実”のひとつの見方にすぎない。

今作がもつさまざまな弱さを感じ不満に思いながら、参ったなと思うほどに揺さぶられたのはなぜだろうか。伯爵・由良昴允の世界が即座にそれとわかるほど歪んでいないからだろうか。たしかに伯爵の見ている世界は(一見するかぎり)整合性を保ち破綻していない。彼を律するものが規矩にやかましい儒教であり、伯爵や中禅寺により儒教文献の漢文読み下しで引用され語られることがすべて(少なくとも今の我々の“常識”に照らすかぎりで)ほとんどどこも間違っていないことも、アイロニィを強めている。そしてなにより伯爵は“知識の人”だ。“正しく”世界を認識しつつ、作中で描かれたような顛末になりうること、これと共通するような特質を帯びた事態を、私自身もどこかで経験したことがあったからか? 「この世には不思議なことなど何もない」、しかし現実は理だけでは出来ていない……それをまたもや思い知らされる気がしたからだろうか。

しばらく得心のゆく答はみつからないだろう。単純に“ツボにハマった”だけかもしれない。生硬な言葉ばかり並べて、もし本稿を最後までお読みいただいた方がいらしたら、申し訳ありません。

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