スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
category: スポンサー広告 | permalink | - | - |

Arvo Part: "Cantus in memory of Benjamin Britten"

音楽を聴いていて、旋律に感動することはある。楽器の音色や歌い手の声質一発で泣かされることもある。歌ものなら、歌詞の内容や修辞、歌い方に心を揺さぶられることもある。

だが、響き……としかたぶん呼びようがないものに深い感銘を受けたのは、自分にとってはこの曲(と演奏)が初めての経験かもしれない。そしてうまく言い表す言葉や知識を残念ながら私はもたないのだが、ここでいう“響き”とは、おそらく和声(harmony)ではないような気がしている。

もちろん、音楽は時間軸に沿って流れるし、この曲でも何も変化がないわけではない。自分は楽理を理解していないのでそう思い込んでいるが、ほんとうは純粋に“響き”だけに感動したのではないかもしれない。そもそも感動の元について分析まがいのことをすることに意味があるのか疑問でもある。それでも敢えて“響き”に揺り動かされたと強弁したくなるようなものが、この曲にはある……そう思う。

標記の曲で、私が聴いたのは以下の2つの演奏だ:

  • Arvo Pärt(アルヴォ・ペルト): Tabula Rasa (ECM New Series 1275, 1984)所収、Dennis Russell Davies 指揮・ドイツ Stuttgart 国立管弦楽団演奏

  • Arvo Pärt: Fratres (NAXOS 8.553750, 1997)所収、Tamás Benedek 指揮・ハンガリー国立オペラ管弦楽団演奏〔このCDでの標題は "Cantus in memory of Benjamin Britten for strings and bells"

  • 各々、リンク先はレーベル公式サイトの当該アルバム頁宛。NAXOS 盤は演奏時間7分29秒で、5分ちょうどの ECM 盤より約2分半長い。なお、NAXOS 公式サイトでは登録さえすればなれる無料会員で、一部を試聴可能。

曲名に明らかなように、この曲は Pärt が1976年に亡くなった英国の作曲家 Benjamin Britten(リンク先は MusicWeb の Britten に関するページ、Rob Barnett さん執筆の包括的な評伝)を悼んで書いたものだという。

冒頭、鐘が鳴り、その残響が消えるギリギリのところで静かに弦が鳴り始める。ただならぬ響きだ。弦が二重か三重かの層を成して短調の音階をゆっくり下降していく。それは旋律なのだろうか? アンビエント音楽で自分には耳なじみのあるドローン(drone, 通奏低音)も、ここではヴァイオリンなど高音域の楽器の音よりさらに緩やかに下降しながら循環する。次第に演奏全体の音量が上がり、弦の重層を背景にして標題がいうとおりに弔鐘のように鐘が一定の間隔をおいて打たれる。終盤、鐘が止まり、弦だけがさらにテンポを落として音階を下降する音がしばらく続き、やがて弦の音階上の動きも止まり、最後に1音だけ鐘が鳴る。そして静寂。

「ただならぬ響き」といま書いた。一聴、真先に頭に浮かんだのがこの言葉だった。悲歎、ほとんど純粋で透明なまでの。何度も書くが、こんな音楽は自分にとっては初めてだった。出遭えてよかった。

この Pärt という、かつて“バルト三国”と呼ばれた国々のうちのひとつエストニアに生まれ、ソヴィエト政権下で苦労した作曲家のことは全然知らなかった。先日の Tom Waits についての拙記事を書く契機となった Kompf さんのウェブログ「快楽原則」、2004年6月14日付「TABULA RASA」で初めて名前を知り、そのエントリで取り上げられていたこのCD(= 上記 ECM 盤)も、先日のCD大量買い込みで入手。トラックバックを送ります。Kompf さんがお書きになったことは、Pärt の上掲2枚の作品を聴くうえで非常に参考にさせていただいた。ありがとうございました。

以下、やや脱線。

「ペルト」の表記は本来ならばエストニア語で(? いずれにせよエストニア語ではウムラウトと呼んでいないのではないかとは思うが)「Pärt」です。本サイトで利用しているウェブログ・ツールでは、残念ながらエントリ標題に実体参照表記を用いると表記冒頭の「&」が二重に解釈されて変換されてしまい、また RSS 生成でも不具合が起きるようなので、標題のみ「Part」とせざるをえませんでした。

極めて小心な私にとっては、自分がよく知らないことについて書き、その書いたものが他人様(ひとさま)の目にふれ(う)るという事態は怖ろしい。そして、現代の作曲家による作品も含めた西洋古典(いわゆるクラシック)音楽は、私がまったくといっていいほど何も知らない世界のひとつだ。まったくお話にもならないが、自腹を切って買った西洋古典音楽のCDはこれまで Faure(フォーレ、Gabriel Urbaine)の Requiem(Corboz(コルボ、Michel)指揮・ベルン交響楽団演奏)1枚だけだった。したがって、本稿は全体にわたって無知・無理解・誤解・誤謬その他を無数に含んでいると思われる。

「しょせんウェブ上で……(以下、「誰も読みはしない」「自分で好き勝手に書いているに過ぎないのに」「自意識過剰以外の何ものでもない」等々と続く)」なのは百も承知だが、こういう余計な但し書きをつけざるをえないのが現時点での私自身の感じ方だ。こればかりは如何ともしがたい。御寛恕を乞う次第です。

“楽譜どおりに……”

為にしない本物の愛好家的情熱と関心を持続している西洋古典音楽好きの職場の先輩と、その方面の音楽をほとんど聴くことがない私は、昼飯時や飲みに行った時にしばしば音楽の話をしていた。

もっぱら議論をふっかけるのは私のほうからだった。無謀だ。先輩は専門教育は受けていないが長らくアマチュア楽団で楽器を演奏した経験をお持ちで、楽理に通じ、歴史好きで西洋古典音楽史にも詳しい。かたや私は、せいぜい学生時代にロックのコピー・バンドでヴォーカルとリズム・ギターを弾いていた程度の経験しかない。むろんクラシックについては先述のとおりずぶの素人だ。「楽譜に書かれたとおりに演奏して何がおもしろいんですか?」「演奏家に自由はないんですか?」

“楽譜に書かれたとおりに”などと口走っているところで、すでに自分の西洋古典音楽に関する無知と無理解が露呈している。ただ、ジャズなど即興演奏を大切にしている音楽を好む私にしてみれば、先輩に頼んでCDを拝借した Bach(バッハ、Johann Sebastian)や Debussy(ドビュッシー、Claude)のピアノ曲で、ピアニストがここぞというところでアドリブを繰り出さないのが歯がゆくてしかたがない。いずれも先輩のお眼鏡に適った演奏家によるもので、タッチの力強さや音の粒立ちの明瞭さなど演奏の伎倆が群を抜いていることくらいはボンクラの私にもわかる。だからいっそう「こんなに驚くべき演奏技術を具えているのに、どうしてここから離陸し飛翔しないのか」と思ったのだ。それが西洋古典音楽の世界では馬鹿げた苛立ちであることがわかっていても、そういう思いは今でもどこかに残っている。

「たぶん、変えてしまうと何かが損なわれてしまう……演奏家はそれを怖れて/懼れているんじゃないかな」。これが先輩の私の稚拙な問に対する回答のひとつで、私が無前提に承認していたらしい、即興演奏のほうがさらによいものが出来る(こともありうる)という或る種のバイアスに、私はようやく気づくことになった。

実際、ジャズの即興演奏もほんとうにどこまでが文字通りの“自由に、意の赴くままに”なのか、本格的な演奏経験を欠く私にはわからない。学生時代に所属していたバンド・サークルが学園祭で毎年PAとミキシングをお願いしていたところは、坂田明コンボが幾度も録音に使ったレコーディング・スタジオを経営していた。そこの名物スタッフから伺った話によれば、バリバリに“フリー”な演奏をしていた時期の坂田さんも、「じゃ、今のところもう一度」と言ってその直前にやった演奏とそっくりそのまま同じものを平気で再演し、必要な部分を取り出して切り貼りしていたという。反面、明らかにこれは即興だろうし、アドリブでなければこんな演奏はできなかっただろうと聴いているだけで確信できる、言葉どおり珠玉の音楽もある。

作品と演奏と

作品を聴いているのか、演奏を聴いているのか。(例外もあるのは承知しているが)作曲者と演奏者が分離してしまった西洋古典音楽と、作曲者イコール演奏者である場合が圧倒的に多いクラシック以外の音楽と。先輩に投げた最前の私の問も、つまるところこのナイーヴに過ぎる二分法に起因しているように思う。楽譜を読むこと(のみ)では音楽を理解できない自分にとっては、実際に聴くことができる演奏がなければ作品はないに等しい。それでも自分の裡では、この二分法については相当に長い間納得ゆく理解ができないままだ。先輩の答はひとつの示唆だったけれども、その意を十分汲んだうえでなお、「だったらクラシックには駄作もあまりにも多いですよね」と不遜を承知のうえで言い返したい気持ちも私にはある。

今回、Pärt の "Cantus..." にまつわる本稿でこんなことを書いているのは、この曲を聴いて、おそらく自分は演奏の可否にかかわらず、まさしく作品それ自体に感動しているのだろう、という気がしたからだ。これ以前、西洋古典音楽では1枚だけしか持っていなかった Faure の Requiem は、私がひどく落ち込んでいた時にくり返し聴いてずいぶん慰められ力づけられたが、残念ながら自分にとって、そうした極めて個人的な事情抜きではあの曲については思い致すことができない。

余談。これを書いている途中、思い立って Faure の Requiemのとくに Corboz・ベルン盤についてウェブで検索すると、「自分の葬式の時には、他には何もいらないからこの曲/演奏を流してほしい、と思う人多数」という記述が随所にあって可笑しかった。私もあの演奏を聴いて、まさしくそのとおりのことを考えた。

「響き」「作品それ自体」などと自分に能うるかぎり言い表そうとしてみたが、おそらくうまくはいっていない。

唐突だが、まさか(教科書的な意味合いでの)プラトン的イデアのようなものが音楽の本質だとも言い切れないとは思うが、ひょっとしたらそのイデア的な“純粋音楽”のようなものが私には視えていないだけなのかもしれないとも思う。そういうことを思わせ、そうしたイデア界のようなものがあるのではないかと感じさせる音楽家は、西洋古典音楽の世界に限らず、たとえばジャズでなら自分の場合、 Thelonius Monk や Eric Dolphy、それに Wayne Shorter の曲でそれを感じる。

知人の画家に「あなたの目では世界はどのように見えて/視えているのか」とかつて尋ねたことがある。彼は回答を私にはくれなかった。創ることをほとんど放棄してしまった自分は、それでもまだ、創っている人が見ている/視ている世界、その見え方/視方に興味があるらしい。未練なのかもしれない。Pärt には、彼が多くを学んだ中世キリスト教会音楽から影響を受けて構築した独特の音楽理論があるそうだが、そうした理論を措いて、こんな音楽を創り出したあなたには何が視えているのか、と訊いてみたい気がする。

----------

以下、Pärt に関するウェブ上リソースの備忘。どれも検索エンジン上位に挙がるところで、ざっと斜め読みして参考になりそうだと思ったもの(いずれも英文):

  • 「David Pinkerton's Arvo Pärt Information Archive」。バイオグラフィ・ディスコグラフィ・作品分析・ウェブ上の他の Pärt 関連情報への詳細なリンク集など。最も網羅的か。

  • 「www.arvopart.info」。バイオグラフィ・作曲家の最近の活動についての情報・CD化作品リスト(レヴュウはまだないものが多い)など。

  • また、「Musicolog: Arvo Pärt」。作品年譜・代表作のハイライト試聴可能(ram および MIDI ファイル)・作曲技法分析など。

  • NAXOS レーベルの Pärt バイオグラフィ。同レーベルに収められた彼の作品試聴ページへのリンクあり。

  • 〔04年7月13日追記〕Pärt についての評論、Dale Nelson さん執筆「The Bright Sadness of Ardo Part」。掲載されているサイトは Touchstone という、どうやら(『ナルニア国物語』の)C S Lewis が "Mere Christianity"(『キリスト教の精髄』)という著作で書いた(私は未読)精神を受け継ぐ(と標榜しているようだ)宗派横断的な、バリバリのキリスト教護教雑誌らしい。この評論もそちら方面にかなり言及しており、その部分は私には理解できないが、Pärt の音楽が多くの人に感じさせるという「無/非時間性(timeless)」「静寂(silence, 沈黙?)」などを論じた箇所は、本稿末尾の“イデア的”云々(書いている間に忽然と浮かんだ)のたわ言と関連するところがあり、非常に興味深かった。末尾に簡潔な解題付きの推薦作品/演奏リストあり。

  • 〔04年7月17日追記〕その後、さらに検索エンジンで以下のサイトにたどりついた。いずれも "Cantus..." をとくに取り上げて分析と解釈を試みたもの。ただし、音楽用語はたとえ母語で書かれていても私にはほとんど理解できないので、リンクと自分が理解したかぎりでの概略のみ。

    まず、Michael Attwood さんのサイト Michael's Homepage 内、「A study of Cantus in Memory of Benjamin Britten by Arvo Pärt」。Michael さんは、Wikipedia 英語版のこの曲の項を(本追記執筆時点で読める)現行のかたちに大幅に加筆された方のようだ。第1ヴァイオリン・第2ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスが、この順序で 1:2:4:8:16 の比率に従って緩やかさを増すテンポのもと、徐々にイ短調の音階を下降していく……云々と詳しい分析がなされている。ただし、エッセイ末尾に到って内容が著者の信仰(仏教の由)と深く関わる。

    次に、私にはほとんど読めないフランス語なので、申し訳ありませんがポインタのみ。フランスの何らかのレベルの教育機関では、Pärt がバカロレアの課題として取り上げられているらしい。「Baccalauréat 2004」以下に「Miserere et Cantus in memory of Benjamin Britten de Arvo Pärt」という項目があり、そこから張られたいくつかのリンク先で "Cantus..." の分析が楽譜の抜粋とともに読める。

category: music | permalink | Comments(2) | Trackbacks(1) |
Derek Bailey 著『インプロヴィゼーション』読後
快楽原則の Kompf さんが、2004年9月29日付エントリ「Improvisation」にて興味深い本を紹介しておられたので、読んでみた。著者の経歴や本書の内容概観について、詳しくは Kompf さんによるこの記事をぜひともご覧いただきたい
from Night rain, in winter... | at 01:28 on 2006/08/04 |
Comments
記事の紹介
TBさせていただこうと思ったらうまくいかなかったので、
私の記事中にこちらの記事の紹介をさせていただきました。
ご報告まで...。
| まぁらうの母 (URL) | at 14:49 on 2007/03/19 |
[Edit/Delete (comment author only)]
まぁらうの母様、御記事を拝読しました。拙記事に言及していただき、ありがとうございます。また、トラックバックをこちらで受け付けなかった由、大変失礼しました。

オーケストラに参加しておられるとのこと、ペルトのこの曲のようにシンプルな構造だと、演奏するのは単純さゆえにかえって大変ではないかと拝察します。いっぽうで、自分が出した音が他の人たちの音と一緒になってあの響きを作り出すしてゆく心地よさもまた、大変なものではないかと、楽器を演奏できない私は想像するばかりです。
| moondial (URL) | at 20:47 on 2007/03/19 |
[Edit/Delete (comment author only)]
Care to comment?














About This Site

おもに音楽と読書にまつわる雑感を随時綴っています。

Table of Contents
Recent Entries
Recent Comments
Recent Trackbacks
Credits
  • Most of the photographic images carried here are from the superb collection of free stock photos, stock.xchng
  • CSS and HTML template edited using ComponentSoftware RCS, an excellent RCS suite.
  • Textual contents of this site licensed under a Creative Commons License (by-nc-sa), except where otherwise noted with my sincere acknowledgements.
    (CC)2004–2006 by moondial. Some rights reserved.

    Creative Commons banner

For Syndication
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。